伊賀の中世城館群と
天正伊賀の乱激戦の城跡
(無量寿福寺)

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無量寿福寺は、天平勝宝年間(749~757)孝謙天皇の勅願により行基菩薩の開基と伝えられています。鎌倉時代後期の文永元 (1264) 年頃、伊賀国出身の律宗の僧で、中興開山の祖である応準行然和尚が更に興隆させます。鎌倉時代は東大寺戒壇院流律宗の寺院として写経や講義が行われると共に、唐招提寺・西大寺・東福寺など各派の学僧の往来盛んにして、密・律・禅の三宗兼学の道を進め、講経修禅の道場となり、この地域を代表する寺院の一つとして栄えました。応準の師、東福寺の聖一国師が、この一帯はあたかも中国五山の天童景徳禅寺に似ていると、天童山の山号を授けられたと伝えられています。
また、明徳2(1391)年の『西大寺諸国末寺帳』という資料に無量寿福寺の名前が見えることから、室町時代には西大寺の末寺となっていたようです。かつては、十三間四方の本堂や護摩堂、客殿、食堂、鐘楼などが建ち並び寺勢を誇ったと伝えられ、忍者の起源の一つである修行僧や修験者の道場にもなっていました。
天正伊賀の乱についてまとめた『伊乱記』によると、天正6(1578)年、織田信雄の家臣滝川三郎兵衛が丸山城を築城したことに対抗し、伊賀衆は丸山城と木津川を挟んで対岸に位置する天童山に馳せ集り、一刻も早く丸山城を攻め落とすよう評議したと記されています。翌天正7(1579)年、織田信雄が伊賀国に侵攻した折には、伊賀衆は平楽寺と寺田大光寺、天童山の三カ所で会合して評議したといい、織田軍を二度にわたって撃退しました。
天正9(1581)年9月、織田信長は信楽・甲賀・加太・大和の諸口から伊賀国へ侵攻し、伊賀衆の拠点の一つであった天童山は日置大膳・長野左京太夫・古田兵部少輔の三将の軍勢に攻め掛かられました。この時、本堂、護摩堂、客殿などすべてが焼失し、再興されるのは江戸時代になりました。
無量寿福寺では、戦乱に明け暮れた伊賀衆の栄枯盛衰を偲ぶことができます。

無量寿福寺

アクセス

伊賀鉄道 丸山駅 徒歩15分

T E L

0595-26-7788(伊賀上野観光協会)

住所

伊賀市下神戸

駐車場

あり

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